昭和45年9月20日 夜の御理解
はぁ…私共この、人間の誰しもが、まぁ同じと思うのですけれども、一番大事な物というたら、やはり自分の身が一番大事、 自分の身ほど大事なものはない。 え~、それを人情とか義理とかと言ったような事で、自分の身を、まぁ、「こうものかるくに?」置くとか、または、自分を犠牲にするといったような例は、あるのは沢山あります、ね。
それは、どこまでも人情とか義理とかといったようなところから、え~例えばお芝居なんかの筋なんかに出て来るのは、言うならその人情とか義理とかで、なら自分の、自分の身を犠牲にして他を立てるといったような生き方をいたします。 え~これは本当によくよく赤裸々に考えて見ますとですね、実を言うたらやっぱり自分の身ほど大事なものはないと。 例えばあの、これは私共、引き揚げしたっですけども、得にあの満州から引き上げた方達なんかの場合なんかは、もう本当にみすみす自分の子供をですね、本当にその、捨てて来たというのが沢山あるそうですね。 やっぱり自分が助かりたいからですよ。
ですからもう、子供の何とかち言うのもいよいよギリギリの時にはもう、自分の身ほど大事なものはないという事です。 まぁそういう例えばそれを例で申しますとね、あの、子供さんがあるのに、例えばこの愛人が出来たりしてから子供なんかはもう主人を捨ててから愛人の元に走るなんてのは、もう絶対自分の身がかわいいからですよ、人間にはそういうものがあるんです。 それをまぁ例えば、義理とか人情とかといったような事で、そげな事じゃ義理がすまんじゃないかと、そういう事では人情を尾をかくじゃないかと言うような、「 」とか、まぁ道徳的なところから、それがその、まぁ無理に表面に出される場合もありますけども。 ただしこれでは、実を言うたらあんまり、何もならんのです。
信心と言うのはね、もうどこまでもね、信心というのはどこまでも神様が相手、神様が対象。 そこで教えられるのが真とか真心とこういう訳なんです。 ね、だからこれを私共
追求して参っておりますとですね、それをその、真心、または真というところに焦点を置いて自分を考える。 そこからですね、初めて自分の身というか、それこそ人が助かる事さえ出来れば自分の犠牲なんか、自分が修行するぐらいな事は問題じゃないという事に、とうという事に、、いわば高度な事になってくるという事なんですよ。
ね、ですからそういう人はもう絶対お徳を受けますです。 だいたい言うたらもう自分の身ほど大事なものはない。 もう本当にギリギリの時には自分の身ほど大事なものはない。
その自分の大事なものを犠牲にしてです、人が助かる事さえ出来ればと、いわば教祖金光様のいわゆるその、「きゅうだい?」精神とでも申しましょうかね。 ね、それが神さまへ向けられる、いわゆる真、真とか真心「 」一心がね、そういう事になって現われてくる。 だから、例えば私達の先達先輩であるところの、いわばお徳を受けられたといったような方達はみ~んなやっぱりそうです。
本当言うたら自分が一番大切なのだけれどもです、信心がだんだん奥がに進んで行き、いわゆる真心の追求をさせて頂きよるとです、そこから今度は自ずとです、自分の身を犠牲にしてでもといったような、その麗しい精神が生まれてくる。 それに、いわば天地が寒増しまさんハズがないのです。 だからその、天地がその人の為に自由になって下さるほどしのおかげにも、いわばなってくる訳なんです。 いわゆる天地の信用がそこに一つ、
はぁ一生懸命参ったからとか、拝んだとか、修行したからというぐらいな事じゃない。
私あ天地の信用では、いわゆる御神徳を受けるといったような事はもう、とんでもない事、出来ることじゃない。
もうギリギリのところ、自分ほど大事なものはない。 その自分という大事なものはないほどしの自分をですね、やはり犠牲にするほどしの心が育って来る、それを場合には真心といい、真といい、または神心という訳なのですよね。 だから私共そういうその、まぁけいこをさせて頂いてる。 例えば今日の総会の事なんかを、あの、毎年の事ですよね、去年はあの、大阿蘇で。 その、かせんじきでしたかねぇ、もうそれこそ、あの日は大変暑かったんですけども、私共がテントでも張ろうかという時にテント張っちゃならんという事になった。 あそこに、そういう決まりがあるんですよね。
そしたら見てごらんなさい、雲がず~っと下りて来たでしょうが。 私共があそこにおる間は、いわば日陰を雲が作ってくれて、私共がバスに乗り出したら、車に乗ったらまたカンカン照りといったような、そのいわば、おかげであった。 今日でもそうでしたねぇ、
あれだけ人数の者が「 」ですか、あちらへ参りました。 もう行きがけからちょっとパラパラとこうしていた。 けれども、例えば私共が色んな行事をさせて頂くには何の立ち障りもないようなお繰り合わせを頂いて、あの、お食事中に滴が出るように、あの、流れるように降りましたけれどね。 あれはあのほんのその、まっ、だけだったでしょうが、ね。
その前後の事を、その事を思うてみると、なるほど合楽の為に天地が自由になってござるなというものを感じん訳にまいりません。 いや、あのお湿りでなからなければ味わえん雰囲気すらあったんですものね、ね。 「 」されますのに、それこそもう、雲の中で、ねぇ、雲の中で御飯を頂く、頂いたといったような事は初めて。 もうそれこそ何とも言い知れん神々しいまでのね、雰囲気の中に、雲の中に私共があるような、ああいう雰囲気なんかで普通で頂けれる事じゃないですよ、ね。
そういうおかげ。 そして雨が降ったから困ったという事は一つもない。 それはまるしょうの方達の色んな設営とか、そういう事に会っては、やはり修行だったと思いますけども、あれは神様がもう絶対修行として受け取って下さったですね。 なぜって今言うように、その僕達の為ではない、合楽全体の為に皆さんが奉仕なさったんですもんね、ね。
例えばなら今日なんかでも、ああして沢山な人が、沢山な「 」で普通で、普通はあまり不信心で時々しか参って来んというような人達までも今日出て来ておったようなでしたね。
その人達がその、大祭を一月後にして、ね、大祭を一月後にして、その大祭の為に少しでも自分の思いというものを心得、心を神様へ、大祭へ向けさせて頂こうというような、例えば働きが少しでも出来たとするならばです、それは自分の者はある意味において犠牲にして、神様の事を思うという事になるから、これがおかげを受けないハズはないですね。
それがもっともっと高度なものになって来れば、もっとそれはもちろん素晴らしい事ですけれども、言うなら信心の程度の低い人達がです、はぁもう一月後には大祭だぞと、ね、さぁ大祭までに、例えば今日は草野の人がお届けをしました。
大祭までにはこげな修行をさせてもらいますと。 大祭までにはこういう風におかげを頂きますと言ったようにですね、修行をその大祭の為にかける、自分がおかげを頂く為にではない。 自分の身ほど可愛いものはない、自分がおかげを頂かなければならん為に修行すると言ったのでは、それは大した値打ちはないです、ね。 けれどもその、こと大祭の為に一月間、修行でも思うとかといったように、それが沢山出けてくるという事は、それはもうそのままですね、人が助かる事さえ出来ればという精神に繋がる事なんですよ。
ね、ですからおかげを受ける。 大祭前に本気で修行をさせて頂く人達は必ず力を受け、おかげを受ける事はもう、それは絶対のものだと私信じております。 私は今日それをね、本当に、本当言うたら自分の身ほど可愛いものはない、可愛い子供とか、可愛い何とか、何々と言うけれども、いよいよ、ギリギリになる時には、人間は我が身ほど可愛いものはないというほどしに、自分の身は可愛いもの。
それをですね、なら出来なくてもそちらの方へ、方向を、それが人情とか義理とかという事ではなくてです、信心によってそれが向けられるというところに、私は信心の尊い値打ちがあると思うのですね。 私共そこんところ限りなく、繰り返させて頂く内にです、ね、それこそ人の事の為に自分を犠牲にする事が、いやそれがむしろ有り難い事だと、いわゆるお徳を受けられた先生方の生き方、ね、教祖金光大神様の御生きられ方といったようなものは、もうそこに焦点がいつも置かれておるし、またそこのところを、のおかげを受けておられる。
ね、そこに言うならば、自分というもの、そこんところがね、義理とか人情とかと違うというところはね、自分を犠牲にしたなら犠牲の、犠牲のしっぱなしなのですよね、人情とか義理とかというのは。 ね、後々にそれが一つの美談というような事になっても、お徳を受けるという事にはならんです。 ところが信心でその事がなされる時にです、いわゆる天地の信用、天地の御神徳が受けられるのです。 ですから、自分を捨てたハズの自分がです、嫌むしろかえって生き生きとして生かされたおる。 いわゆる、神も助かり氏子も助かりという事になって来ておる。
ね、同時にその人を中心にするところの人達までが助かって来ておると。 ね、私は信心の有り難いのは、例えば自分をそこに捨てきるところにです、ね、そこに神様が拾うて下さる働きというものがね、これはもう義理人情では出来ません。 そこにね、信心のそれこそ「れいみをふかしきらん?」神の働きというものがそこにある訳なんです。 ね、それを私共は信じての修行である。 一変には出来ません、出来ませんけれども、せめて大祭までは、いわゆる大祭の事の為に、ね、一修行させて頂こうといったような精神と申しますか、ね、そういうのが私は真であり、真心なのですから、自分の利害を外したもの、ね、そういうけいこを信心とはさせて頂くものなんですよね。
そして、信心。 いわゆる信ずる心。 信心、いわゆる真心が育って行く。 ね、しかも神心、いわゆる神心が限りなく育って行く。 信心とはわが心が神に向かうのを信心と言うのじゃと、素晴らしいでしょう。 ね、義理人情で神には向われません、けれども信心、そこにね、神様に向って進んで行けれるその道、それが私はお道の信心だと思いますね、どうぞ…。
末永 信太郎